基準点(ゼロ点)

眠れぬ夜の思考の彷徨いと仮説

 


基準点(ゼロ点)

 


わっちが見ている色は ぬしも同じ色か?

同じように

わっちが聴いておる音は、ぬしも同じ音か?

 


これな、色では良く聞く話しなのじゃが

(白と金のドレスと青と黒のドレスとかわかりやすい話し)

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https://www.nikkei.com/article/DGXMZO85079060R30C15A3000000/

 


音でもあるんじゃなかろうかと思うておる

 


こういうの、味でもあっての

わっちぁ果物のクエン酸系の酸味をぜんぜん感じない レモン余裕でかじれる でも醸造酢はダメで 魚の傷んだ臭いにも敏感

オカンは果物の酸味にすげー敏感 でも醸造酢は余裕

塩気にも敏感

 


同じ物を見ても人により差がある 視覚

同じ物を食べても人により差がある 味覚

人にはコレだけの感度の幅があるのじゃから、好きも嫌いも当人にとっては正しいし、それは良い悪いではありんせん

 


多分 聴覚でもあるんじゃろう

じゃからこそこの世に溢れる音楽は膨大な種類がありんす

それこそジャンル分けするのがバカらしくなるほどあって

他人の好きは不可侵であるので色んな好きが成り立つ

んむ 他人の好きはバカにしてはならんよ

 


で。この好きとか嫌いとかという感覚の幅は経験により広げていく事が可能での。好きなことに飽いたりするし、苦手なものが思うほどでもなかったり 美味しく食えるようになってたり

 


例えばわっちぁ子供の頃 刺身を食っても醤油の味しか感じなかった、子どもながらに色んなネタを食わしてもらいよったが、醤油を乗せる台くらいにしか思ってなかった事がありんす

極端に云えば肉食とか脂のんまみしか感じ取れんかったのかもしれん

今は色んな味がわかるようになった

野菜も好きでくってる 味わいぶかい

甘みも苦手じゃったが 今はんまいと感じるし

香りの味わいもわかるようになっておった

色んな食いもんに千差万別の旨みを感じる

身体に不調をきたすものでなければだいたい食える

 


コレと似ていてて わっちぁ身体に不調をきたす手前の音楽もだいたい聴ける メルツバウとかふつー聴かんわな 

https://spotify.link/WtsVGbI3uIb

なのでどんな音楽聴きますか?って云われるともちろん好き嫌いはあるものの、答えに困ってしまうくらいにはなんでも聴いておる

https://spotify.link/E3tF3QP3uIb

(☝︎これは誰にでもおススメできる感じ)

それこそtechnoならデリック・メイ辺りから

houseならフランキー・ナックルズ辺りからずっと掘ってるし

ジャンルも国も都市も年代もクロスオーバーどころかボーダーレスどころか「枠としてくくれない」くらいには聴いておるのよ

 

なんでこんなコトを云うかというと、かなりへっぽんを聴いてきた人が推すへっぽんをわっちが聴いたときに「なんでこんなに混濁しておるもんがええのじゃ…」とクビを傾げるものがいくつかありんす

何度聴いても理解に苦しむモノがありんす

その人に感じない濁りなのか

わっちが敏感なダケなのか

一般的にも感じられない濁りなのか

作ったメーカーも自信満々じゃし

これは感度が異なるとしか云いあらわせられぬ

つまりは感度という『主観』については個々人それぞれが持つ『好き嫌い』であり、押し付けられたり矯正されたりしてはいけないものじゃ

そのうち歩みよって嫌いなものも理解できれば良いダケのことじゃ

たくさん美味しくいただけた方が人生豊かじゃろー

 


で。その次の良い悪いになるとこれは主観を捨てなくてはならないので、わっちぁ自分の好き嫌いを捨てる

じゃが、良かろうとも悪かろうとも、ふつー一般的には主観で判断するわけなので良いモノが良いと汲めないのは至極あたりまえのことでありんすし、どうやって食っても不味いのにコレが良いんだってよと無理して食うコトもありんせん まあ食えるようになったら人生はさらに豊かになるじゃろうけどもの

 


んで。何をもってわっちぁ良いのか悪いのかと判断するかといえば、膨大なデコボコの機器と、膨大なジャンルレスの音楽を聴いてきたなかで、出っ張ってるとこと引っ込んでるところがなんとなく掴めておるから、良いとか悪いとか自分の感情も主観も捨てて云えるわけじゃわ

ココで悪いものに出会したとしても「悪いものを好きこのんで食ってる人がいる」わけなのであえて「コレは悪いもんです」とか無粋なコトはいわんようにしておる 余計なお世話じゃし わっちもなぜか伸びたカップうどんとか好きじゃし

そもそもわっちも「良いとされる病院の入院食みたいな完全栄養食」だってふつうに不味いと思うし

カロリーメイトだけで栄養的には暮らせるかもしれんが多分あたまおかしくなるじゃろ

「良いけど不味いよ」

「悪いけど美味いよ」

これはある

 


まあ、これは2022年とかにあたまにえがいておったはなしで、ココで余計なのは結局は好きと嫌いを抜きにしても『良い悪い』の判断には経験の差が出るということ

現代美術がなぜ高評価されておるのか詳しくなければようわからん話しじゃ つまりは経験と知識という積み重ねが『理解』するのに要るということ

それって『良い』ものを理解するのは専門家でもないとムリなのでは?おそろしく敷居をあげている要因な気もしていたわけじゃ もちろん理解をするのに怠惰になれという話ではありんせん 持っていれば持っておったほうがええ そして自分でやしなわねばならんし 教えられてそのまま得られるもんでもない 

 


2023年とかに考えておったのはもっと芯を捉えようとして考えにいたり

楽家とマスタリングエンジニアがコレでヨシとしてこの世に残した音源を、足すことも引くこともなく再現するのがゼロ点(基準点)であるじゃろうと

じゃが、そのゼロ点たる音の確認はその曲の音楽家とマスタリングエンジニアに聴いて判断してもらわねばならず中々できるものではありんせん

そして「良い」とはゼロ点からさらに深化した音の表現を引き出せるものであろうと

盛るんじゃありんせん

引きだす

あったものに追加するのではなく

あったままのものから発見するコトじゃろうと

 


これはの、中々難しいじゃろ 

雑味を削いで削いで削いで削いだあとに んまみを引きだすような感じじゃ。ココまではできる

さらにそこに自分の判断すら邪魔だとして入れなくなるともはや音楽家を呼んでこなくてはならぬ

それも録音に熱意を込めた音楽家が必要じゃ

これは中々むずかしい いやふつー無理じゃ

もっと普遍的で一般的で簡単なことはないか?

いまそこで行き着いた2024年は自然音じゃ

 


自然音は誰でも聴いた事がある。自然音の再生で違和感があるならそれは盛られているのか足りてないかがわかるはずじゃ

もちろんそれとて音楽と同じく録音の程度の差というのはありんすし、聴く者の経験と感度の幅はあるじゃろう

それでも『誰しもが正解を経験している 知っている』というのは大きなアドバンテージであるはずなのじゃ

ただ一つの唯一解である作った音楽家を連れてこんでいい

さざなみの音とか雨の音、森林の中の音などわっちらはすでに知っているその自然音と、機材の出す音の違和感をを感じて修正すれば良い

とはいえ蛇足じゃが、落雷などの音は再現できぬじゃろう アレはとんでもないダイナミックレンジじゃから音圧でスピーカーが吹っ飛ぶとかできようハズもありんせん

そこまではできんとも、さざなみの音を聴いて波打ち際の位置がわかるなら定位に優れておるわけじゃし、鳥の声が遠くから聞こえるならば奥行き表現を読めるわけじゃし、雪原の音を聴けば反射が吸い込まれるデッドな音であるのがわかるゆえ響いておったらならそれは機器の付帯音でありんす、雨の音が一粒一粒イメージできるように聴くことが可能ならば解像度に優れておるじゃろう

知っている音が知っているように鳴っておらんのなら、何かが足らぬし、何かが足されておる

そこまで追い求めんでもいいし、足らぬを知るで充分じゃと思うのじゃが、ようやくゼロ点が見えてくる

そこからさらに、自然音から湿っている感じや乾燥した感じが掴めるなら、天気や季節まで読みとる事ができるじゃろうし、音の違いから音源までの距離も測ることができるはずじゃ(例えば水は近くならチョロチョロ コポコポ 遠くならジャーとかサーじゃ)

音に秘められた情報を拾い上げられる機器は「良い」と云えるのではなかろうか

なのでわっちぁいま、自然音というものに注目してありんす

 


そして何度も云うが、好きに特化して機器を組んだ人をわっちぁ非難するどころかリスペクトすらしてありんす このジャンルのこのアーティストのこの曲はこうして聴いたほうがよりイメージに近いという積み重ねと探求はそれぞれの極地であり不可侵であり蔑ろにできぬコトじゃと思う